堺へのこだわり Commitment to Sakai
右三郎が愛した刃物の町、そしてハヤシを育ててくれた堺
終戦の年でもある昭和20 年の10 月に、初代社長の林右三郎が堺の総合金物卸商であった辻産業より独立し、林金物を創業しました。
右三郎が本社の地として選んだのが、堺の鍛冶屋、刃付け屋、卸屋が集まった刃物の町、堺七まちの一角、九間町でした。右三郎の創業時の堺刃物に対する強い思いが、この場所の選定に現れているように感じられます。
現在は、本社所在地を堺市堺区熊野町東に移転をし、また社名を株式会社ハヤシとして総合金物卸商社となりましたが、ハヤシの根底には右三郎が愛した刃物の町、そしてハヤシを育ててくれた堺があります。
堺の歴史 History
歴史と伝統を礎に
―今、そして未来へと進化するまち―
堺市周辺に人が定住し始めたのは旧石器時代のころ。市内の遺跡からは、約1 万年前の打製石器や、縄文時代の土器・石器、弥生時代の銅鐸・土器などが発掘されています。
4 ~ 5 世紀には大和朝廷が成立しましたが、堺には仁徳天皇陵古墳をはじめ、100 数基から成る百舌鳥古墳群が造られました。
平安時代、この地が摂津・河内・和泉の3 国の境に位置しているところから「さかい」と呼ばれるようになりました。堺は鎌倉時代には漁村として発達し、室町時代に貿易港として黄金の時代を迎えます。この時代、対明貿易や南蛮貿易など海外との交流拠点として発展しました。当時の堺は環濠都市を形成し、自治都市として繁栄しました。
明治以後、近代工業の発展、人口の増大、市域の拡大、交通の発達など、急速に近代化が進み、今日も力強い発展を続けています。
百舌鳥古墳群
―いにしえの文化を物語る大古墳群―
今から1,700 年程前の西暦3 世紀から7 世紀までの約400 年間、大王や王(豪族)が亡くなると、土と石を使って高く盛った大きな墓を造りました。この墓は古墳と呼ばれ、全国に20 万基以上あるといわれています。
堺市のやや北部に位置する百舌鳥古墳群は、日本を代表する古墳群で、かつては100 基以上あったといわれますが、現在は44 基が残っています。
主な古墳には、大仙公園を挟んで、日本最大の前方後円墳である仁徳天皇陵古墳と履中天皇陵古墳があり、東側に、いたすけ古墳、御廟山古墳、ニサンザイ古墳、北側に反正天皇陵古墳があります。
堺の主な産業 Major Industry
刃物 -磨き抜かれた匠の技-
16 世紀後半、ポルトガルから伝わったタバコが国内で栽培され、タバコの葉を刻む包丁が大量に必要になったために、堺で初めて「タバコ包丁」が作られるようになりました。その切れ味の鋭さから、江戸時代には、幕府から「堺極(さかいきわめ)」の印を受け、専売品としてその名を全国にとどろかせたのです。
一本一本丁寧に仕上げられた堺の包丁は、プロの料理人からも高く評価され、使用する包丁のほとんどが堺製であるといわれています。依頼者の希望にあわせ、厚さや長さを数ミリ単位で仕上げるこだわりの一本は、包丁とまっすぐに向き合う職人の姿勢と、状態を見極める勘の鋭さが生み出すもの。磨かれた匠の技は、食文化の発展に大きく貢献しています。
(公益財団法人 堺市産業振興センター蔵)
自転車 -鉄砲鍛冶から受け継がれた知恵と技-
戦国時代から、金属加工について豊かな経験と高度な技術を受け継いできた堺の鉄砲鍛冶。自転車のフレーム加工や部品を取り付けるネジの製造などに大いに力を発揮しました。鉄砲鍛冶の技術を生かして、故障の多い明治時代の輸入自転車の修理や部品製造にあたったことが、堺の自転車産業の始まりで、現在も国産自転車の約4 割のシェアを誇っています。
かつて戦国の世を席巻した堺の技術は、幾百年の時を経て、平和な時代を象徴する技術へと受け継がれました。
(公益財団法人 堺市産業振興センター蔵)
線香 -原料へのこだわりと、調香の妙-
16 世紀の終わりに中国から製法が伝わり、日本で初めての線香が作られました。堺は当時我が国有数の貿易港であり、原料の香木が集まりやすかったことや、寺院が多かったことが線香づくりの発展を支えたと思われます。厳選された天然香料と職人技の妙が合わさり、独特の「調香」を施して完成した堺線香は、香りの芸術品と称されるほど奥深いものです。
工程の機械化が進み、コンピューター制御によって調合されるようになった現代でも、一部の高級線香は、熟練職人の手によって調合されています。また、香料の調合率などは、それぞれの製造元の秘伝とされ、時代に合わせて工夫を加えながら受け継がれています。